クラシック音楽の3代巨匠のひとり ハイドン

モーツァルト、ベートーベンと並び、クラシック音楽の3大巨匠と呼ばれているハイドン。ベートーベンはハイドンへと弟子入りをし、音楽を学んでいます。誰もが知っているクラシック音楽家ベートーベンの師匠であるハイドンは、いったいどんな人物だったのでしょうか。

ハイドンの幼少期

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、古典派の代表であるオーストリアの作曲家です。多くの交響曲を作り「交響曲の父」とも呼ばれています。

ハイドンが作曲した「弦楽四重奏曲第77番」の第2楽章でつかわれている皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」のメロディは、ドイツの国家として使用されています。

1732年、ハイドンはハンガリー王国領の国境付近であるニーダーエスターライヒ州ローラウ村に生まれます。幼いころから音楽の才能を発揮し、6歳からは親戚の家で音楽の勉強を始めます。

8歳になったハイドンは、ウィーンのの聖シュテファン大聖堂ゲオルク・フォン・ロイターに音楽の才能を認められます。

ハイドンはウィーンに移り住み、聖歌隊として9年間働くことになります。ロイターの教育は適当でしたが、音楽の都ウィーンでの生活は、 ハイドンにプロの音楽家への憧れを強く抱かせます。

1749年、ハイドンは声変わりのため、高音部を歌うことが不可能になります。このことで、聖歌隊を解雇されます。以後、ハイドンは友達の家に住みながら、フリーの音楽家として活動することになります。

ハイドンの青年期

聖歌隊を解雇されてから約10年間、ハイドンは知識の不足を補うために勉強に勤しみます。初めて弦楽四重奏曲やオペラを作曲し、音楽家としての評判があがり始めたのも、このころです。

1759年、ハイドンはボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長に就職します。ハイドンはオペラの指導をしながら、初めて交響曲を作曲します。

1761年、モルツィンが経済的に苦しくなり、ハイドンは解雇されてしまいますが、ハンガリーの貴族エステルハージ家の副楽長の職につき、1766年には楽長に昇進することになります。

ハイドンイメージ

エステルハージ家は3つの邸宅を保有していました。ハンガリー西部のアイゼンシュタット、ウィーン、アイゼンシュタット東部の宮殿エステルハーザの3つです。

ハイドンは曲の製作やオーケストラの運営、オペラ上演の責任者などを務め、いそがしい日々をおくることになります。

エステルハージ家の当主ニコラウス・エステルハージ侯爵はハイドンの曲に理解を示し、ハイドン専用のオーケストラを貸すなどして、ハイドンの音楽活動を支えていました。

ハイドンは30年ほど、エステルハージ家につかえています。その間、数多くの作品を作曲しています。ハイドンの作品が認められ、じょじょに人気が高まっていくにつれて、ハイドンはエステルハージ家のため以外にも曲を書くようになります。

この時に作曲された「パリ交響曲」は、外国から依頼されたものだと言われています。


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